ADHDを可愛いという風潮

が、

顕著であるとおもう。

 

(私はADHDではないしその自覚もないけれど、発達障害が世の中のミームになる前からADHDについて詳しかったという謎の自負がある)

 

特に感じるのは、オモコロライターのダヴィンチ恐山さんに関してで、

恐山さんはADHDであることをTwitterで公表している(というか分かる感じになっている)けれど、特にそのことを動画やブログ内で特筆することはなくて、巧みな言葉選びを武器にマルチに活躍されている

が、

オモコロチャンネルを筆頭とする動画であると、やはり恐山さんのADHDさというか、例えば拍手の仕方がロボットみたいにかくついていたり話す時の動作に不自然さがあったりと不器用さが顕著であって、一時期はそれを『可愛い』とする風潮が出来上がっていた

 

『ざんち(恐山さんのあだ名)は可愛い』という風潮がファンの間では流行り、動画のコメント欄にはその動画のどの部分のざんちが可愛いかという論争が溢れていた

 

つまり、今まで世の中にメスを入れるような鋭い物言いと適切な言葉選びで聡明なように見えていたダヴィンチ恐山さんが、動画などで不器用さを露にすることによりうまれるギャップを『ざんちは可愛い』という言葉のセメントで埋めているのだと思う

 

地獄だ…

 

しまいには、『恐山のポンコツ集』という切り抜き動画ができたり、その動画内に『オモコロの人たちは恐山を普通に受け入れてネタにしてる、これこそ共生社会(意訳)』というようなコメントが投稿されている、、

のだが、

 

理解できないことや表で話すには気まずいことを『可愛い』という曖昧に肯定的な言葉で誤魔化すのは残酷だと思う

 

 

 

Vtuber月ノ美兎ちゃんも配信の中で自らの発達障害のことを、

『私はあれ…ここで言うと空気がお通夜になるので察して欲しいんですけど(笑)』

というような言い方をしていて、

コメント欄も

『あっ…』『あの4文字ね』

というようなノリだったので、

娯楽性がある人物がADHDであること(このこと自体はとても多いと思う 芸能人にも多い)は視聴者や受け取り方には気まずいものなんですね

と思いました

それでも美兎ちゃんが配信に遅れたり機材ミスをしたりなんやりをすると、『コンサータ飲んでもろて』『おいADHD』というようなコメントが最近散見されるので、これからアングラな界隈ではネタ化していくのかもしれません (そのこと自体がいいことなのか悪いことなのかは分からない)

 

 

ダウン症児を過度に天使だと持ち上げたり、認知症のおばあさんのほっこりする動画がバズったりと、『障害を可愛く見せようとする』という風潮があるように思う

強く、というよりは可愛く、なのが特徴な気がします

可愛い、というのは主に害がなくて受け取り手の手中に収まる、ということなので、可愛い存在にしてしまうことで理解できない存在を受け入れたり許したいのかな?と思いました。

おわりです