忘却すること

は、良くないと思いますか?

名前は出さない(出せない)けれど、この時期になると記憶が繰り返される 主にインターネットで生活をしているので、記憶アタックをもろに喰らう

TwitterのトレンドもYouTubeのオススメ動画も一色になる

しまいには“忘れないことが一番の支援“という

 

忘却は罪

 

感受性が高いと言えば聞こえがいいですが、赤ん坊のように情報全てをキャッチしてしまい、23年間で取り入れる刺激の取捨選択能力が育たなかった

これを書いている深夜2時のベットの中でも、

猫砂のおしっこの匂い

窓から涼しい風

電気の流れる音 秒針

風が吹く 眩しい電気 猫の寝息

遠くで車が通る ブレーキを踏む音

窓に電気が浮かぶ 猫砂の匂い 風 涼 目の奥で弾ける光

が世界になる 私との境界が曖昧になる

 

ので、

 

私は忘れている 

中学の頃のクラスの組

部活の同じパートの先輩の名前

担任の先生の顔 授業が何分か

高校の校歌 部活でやったコンクール曲 同じクラスだった子のあだ名

文化祭で何をやったか 大学受験した科目 入っていたサークルの名前 合宿でどこに行ったか 同期の名前 引っ越し前の住所 

生まれてから小学校入学までの記憶まるごと

 

私は意識的に忘れている

 

瞬間的に自分が存在すること これはとても気持ちがいい 

自己に連続性がないこと

例えば昔の映画のフィルムみたいに、

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ワンフレームごとに忘れていくのは、穏やかそのもの

なのである。

 

 

哲学ゾンビと近い考えかもしれません

(参照:https://ja.m.wikipedia.org/wiki/哲学的ゾンビ)

 

 

1年ほど付き合っていた人がいたのですが、この間しばらくぶりの友達に この間の人とはもう付き合ってないの? と言われて なんのことだ…となった 私の中にもうその人はいなくて、でもいない方がよかった 思い出を取り出して慈しんでも、もう会えないならないのと同じだから

誕生日おめでとうってLINEがくれば思い出すけど、思い出しても忘れればいい

 

 

歳をとったら、今日のことはなにも憶えていたくない 今思っていることも、考えていることも、結局なんの糧にもなんなくて、忘れて、あの頃は楽しかったなあってなんとなく思っていたい 自分の苦しみの先にいる大人の自分は、気持ち悪い

 

忘れることも優しいのである

 

全部しまっているけれど、何かあれば思い出せて、用が済んだらまたしまう

荷物を少なくしてワンフレームに全部がおさまるようにしていたい

 

過去がなければ、人は優しい 

記憶がなければ

 

思うのですが、どうですか。