神様

生理が重すぎてベッドから動けそうにもなく、けれども致命的にズボラでありそれは発達障害的側面が強いので家にナプキンもなく、恥を忍んで彼氏におつかいを頼んだら、ディズニーのキャラクターとコラボした可愛いパッケージのものを買ってきてくれてなんて優しいのだろうと思った。(別にディズニーキャラクターが特別好きというわけではないけれど、女の子は往々にして可愛い方が喜ぶだろう、と生理用品売り場にはじめて足を踏み入れた彼は思ったのかもしれない。)

 

自分に何もないことに狂いそうな恐怖を覚えて、泣きながらとりあえず色んな資格受験に申し込んでしまう、夜。申し込み完了メールを見て呆れて言葉も出ない、朝。

 

楽しいことはあまりない。ソシャゲのギルドで1位になっても虚しさが残るだけだし、彼氏とディズニーに行っても帰りの電車で何かのお葬式に出た気分になって涙を流す。3年間一人暮らしをして炊事はある程度うまくなった気がするけれど、自分で作った何かはなんでも美味しいとは思わない。楽しいことがほとんどない、こういう心の内を友達と語り合った時だけ、楽しい嬉しいと似たような気持ちになる。安心?

周りに流されてクリスチャンになっちゃおうかなあなんて思う。粛々と祈りを捧げて、神様を望む毎日にすこし憧れたりするけれど多分私の神様ってとても怖いものだからなあ。 

 

昔、多分小学中学年ぐらいの頃、私には色々な声が聞こえた。今思えばそれは家庭状況に伴う精神の不安定さゆえのもので、思春期外来にでもかかるべきことだったのだろうけれど、神様の声だと思っていたから誰にも言えなかった。家の廊下の角に置かれた親のインド旅行のお土産だと聞いた木彫りの像はいつも私に話しかけてきた。トイレに行きなさい、だとか机に座りなさい、だとか。そんなはずはないのだけれどその時はそんなはずがあったから、意味もなく何回もトイレに行ったり何時間も机に座ったりしていた。言うことを聞かないと怖いことがあるよ、とインド像はいつも言った。小学四年生の頃に癌で死んだ父方の祖母の声も、お葬式から帰ってきた後から聞こえ出した。さくちゃんが〇〇しないと嫌いになるよ、って。小学校の頃はとにかく声が絶え間なく聞こえて、クラスメイトの声だとか先生の声がごちゃまぜになったものだとか。小学校の教室の床はいつも斜めに感じて、休み時間毎に消しゴムを転がしてちゃんと水平であることを確かめていた。静かな夜更けに起こされることもあった。私にとっての神様像というのはこんなただただ迷惑なもので、だから何かしらの信仰に入信するつもりはさらさらない。私のテリトリーは私だけのものだ、という意識が強いのだと思う。

あなたが神様に出会ったと思えば信じればいいよ、と礼拝堂で中指を立てる私に優しい周りは言うけれど、とっくの昔に出会っていて。cv.インド像と死んだおばあちゃんだけど。神様ってなんでしょうね。出会った人たちが出会っていない私に偉そうに諭し出すのはなんなんでしょうね。神様はいるけど、それがいいものとは限んないじゃんね。