しょう害しゃ

権利や平等や、そういう何かしらのまっとうな力を配分しようとする人たちは、必ず上にいる。優しさはいつも上にある。疲れた?少し休もうかっ て誰かが私を気にかけるとき、私はその言葉の下にいる。私のゆっくりな歩幅に合わせる足音は私の上で鳴る。私の上に足跡が列を作る。是正されていないものは、是正されるために手を加えられていく、それはとても当たり前なことだなって、思う。

知的障害者に夜道を追いかけられて、怖いって思う、泣きながら家まで走った。電車で見えない誰かと会話する統合失調症の人と席を3つ空けて座る。ADHDの友達のフォローに疲れて2日学校を休んだ。リスカ跡を見ると不快な気になる。死にたいんだって打ち明けられれば右頬を殴る。障がい者は、そりゃいない方がよかった?いない方がよかった。いない方がよかったです。安倍総理が、政治家が、テレビのコメンテーターが、これを言ったらおしまい。誰が言ってもおしまい。でも私は言える。障がい者はいない方がよかった。私が障がい者だから。私がいない方がよかった。障害がなければよかった、ね。

平等や権利を配分しようとする上の人たちはきらきらしていて、それはそれは高校の部活みたいな一体感を伴ってる。下、の私たち、私たち、なんて一人称は適切ではない、は、ただ障がい者と括られた有象無象で、たまに関わり合ったと思えば、互いに励ましあったり慰めあったりもするけれど、競い合ったり貶しあったりもする。後者のほうが圧倒的に多い。障がい者、というか、そう呼ばれる人たちは1人が1人で完結する。苦しみも悲しみも、1人の中で完結する。だから他人をおとす。自分よりも下を探す。探して安心して、生きる。

カンボジアに学校をつくろう。

学校をつくった。おしまい。NHKのマーク。子供は勉強したいのかな。現地の先生ちゃんと教えれるのかな。学びを生かす職はあるのかな。さらに高度な学びを求める場合の支援は整っているのかな。

カンボジアに学校は必要か?

 

そんなに近づけよう近づけようってしなくていいんだよ。名前をつけるとそこから物語が始まるから、だから放っておいてよね。そうまでして一緒の世界に行きたいって思わないことも、たまにあるよ。ないって訳じゃないけど。助けてくれてありがとうって思うけど、やっぱり私は下なんだなって、まだ嚥下出来ない。優しさはいつも上から降ってくる

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