文学の論
小学生低学年のころ原ゆたか(解決ゾロリとかの)が好きで、中学年のころはママは魔女シリーズが好きで、高学年のころは青い鳥文庫が好きだった
小学生の頃から岩波文庫やら中央公論読んでたよっていう人はたまに居て、嫌味でもなんでもなくスゲーなと思う、私は今もそういう評論文は楽しくないから読まない。ただ相応の、というか、大人向けの文学、というか、とにかく原ゆたかもママは魔女シリーズも青い鳥文庫も今は読まなくて、多分読んでも主観として面白いなとは思えない。あの頃の私ならここが好きそうだな、という読み方しか出来なくて
通り過ぎる文学
というのを最近よく考えるんです
これは文字に限らず、アニメも漫画も文化的なものとしての文学
高校の時に最終兵器彼女を一気読みして大興奮して、母親に勧めたらよく分からない…という感想をもらって
確かにあれは素晴らしい作品だけれど、ある敏感な一時期(それがどこなのかは人に依って大きく異なるけれど)に駆け抜けるように読むことで感情が大きく発生させられるようにプログラムされていて、消費され通り過ぎられる文学なのだと
今アニメはどの層も楽しめるように、というか子供向けと見せかけながら実は大人が楽しめる、というようなカラクリを大人たちがにやにや笑いながら作っている訳だけれど、多分プリキュアもけものフレンズも特撮も等身大の子供と通り過ぎてしまった私たちの受け取り方はまるで違うし、後者はどうしても厭らしさが混じるものなんだ
例に依って私は浅野いにおが大好きなわけだけれど、多分10年後はまるでピンとこないと思う
通り過ぎていく文学に意味はあるのかな、
いや、必ず意味はあるしそこの否定は全くできないけれど、今は文学は消費されていくという前提だから、その現場にいる人たちのことが気になる
作家を目指すなんてやめてやるよって啖呵切る日も近いのかな