くるくる回る

 

おばあちゃんとおじいちゃんの夢を見た。

おじいちゃんは高校生の頃に、おばあちゃんは去年の初夏に死んでしまった。畑仕事に精を出し、近所に助けられまた助けながら、それでも80にもならず死んでしまった。あまりにも突然だったのと忙しない東京での暮らしとで 死 ということについて考えることを放棄して、1年。当人にとっての死、については考えてもしょうがない。真実があるものだから、あと数十年待つしかない。けれど、受動的死、というものについては私たちは考えることが出来るし、また、時には考えなければならない。考えることを放棄した時に人は宗教というものに縋るし、弱くなる。僕も何かしらを信じてみようかと思ったけれど、考えることを放棄したら死んでしまうだろうと分かったから十字架を踏んだ。あの人は今頃天国で見守ってるよ、だなんて、そんな情けない戯言は聞きたくなかった。

夢の中でおじいちゃんとおばあちゃんは存命で、空き家になってしまった岐阜の一軒家でごく普通に生活を営んでいて、僕はそれを神の視点から見つめながら2人とも死んじゃったのにどうして生きてるんだろうとか考えながら。少し前まで確かにあった暮らしを見つめて

僕を起こしたのは飼い猫だった。

去年の秋頃に死にかけていたのを拾ってきた茶色い雄猫。餌くれ餌くれと鳴く猫を見て、いのちはくるくる回るんだな、と思った。ふと頭に浮かんだ、くるくる回る、というフレーズが気に入って、くるくる回るいのちを想像して、なんだか腑に落ちた感覚、朝。僕の愛するこの猫も僕より先に死ぬ。くるくる回って、僕も僕の娘より先に死ぬんだ。